oykzineの読者のみなさんおひさしぶりです、島田粋です。
今年のちい目標は15個ほどありますが、そのうちいくつ紹介したいとおもいます。
・東京の道路と建 物くわしくなる
・服をもっと楽しむ
・本気でワイン 飲もう
・雪にだ い ぶ
このように、全て私生活のことで、ファンタジーに近しいことです❣
資本主義とファンタジーが両立しない可能性を受け入れられないわたしは、
徒然なるままに日記を書くのです…
タレント
お天気がとてもいい日、ベランダに咲いているローズマリーの香りを嗅いでからスタートした日!
1人でお昼ご飯を食べながら、テレビを見てみた。
すると、『xxな人は許せない』というテーマで、タレント達がトピックを持ち寄って、許せる/許せないの札をあげるコーナーをやっていた。
スポーツ選手あがりの俳優みたいなタレントが、『情熱がない人は許せない』というトピックをあげたうえで、スポーツで失敗してもヘラヘラしている人を見て、「下手なら下手なりに悔しがれよ!こっちも困るんだよ!」と思ってしまう。とエピソードトークをしていた。
『情熱がない人は許せない』に対して、みんなが思い思いの札をあげた。
<スタジオ>
MC「島田さんは「許せる」にあげたということで」
わたし「そうですね、みんな情熱は持っていると思うんですよね。たとえばスポーツが苦手で、失敗した時に悔しがれない人は、自分の失敗でみんなの空気を悪くしたらどうしよう、と思ってるかもしれない。
その人は、周囲の人を心配させない、気を遣わせないことに情熱を持ってるのじゃないかと思います。
情熱を持って、「がんばろうぜ!」って熱く周りを盛り上げている人って、情熱を持っていても上手く振る舞えない人とか、頑張っていないフリをしてしまう人の気持ちに気づかないですよね。だけど、学校の先生も会社の上司も、基本はそういうわかりやすい人のことが好きですよね。
だからみんな小さいコミュニティで認められようとして、媚を売るんですよね。
じゃあ、わたしみたいに情熱があっても上手く振る舞えなくて、媚を売ることが1番嫌いな人は、情熱がないから嫌い、というカテゴリに入れられてしまうんですか?
性格が悪いから嫌い、とかならまだしも、何も知らないあなたたちから情熱がないと判断されたあげく、嫌われなきゃいけないんですか?
合唱コンクールのとき、わたしのクラスは、矢野ちゃんという歌がとても上手で、おしとやかな女の子がリーダーになりました。
他のクラスでは、情熱見せれる組が、相手のペースも考えずに練習に来ることを強制していたけど、わたしのクラスは、みんな好きな
時に練習に参加するシステムでした。最初はみんなくるかな?とおもっていたけど、その子があまりにも歌が上手だから、みんな自然と朝練に参加して、声を出して歌って、結果金賞を取りました。
つまりなにが言いたいかというと、「わたし、おれ、がんばってます!がんばれます!みんなでやろうぜ!」のタイプ、情熱があると世間一般から評されるタレントさんみたいな人は、自分以外の人の気持ちや情熱を汲み取ろうとしていないんじゃないですか?
本当の情熱って周りから見えないもので、表現の仕方は人それぞれだけど、見えないからって情熱がないと決めつけるのは、おかしくないですか?だから、わたしは情熱がない人は許せます。その人には絶対見えない情熱があるから。以上です。」
わたしだったらこう答える、を考えおわると、氣志團の曲に合わせてタレントがクイズの正解を言うコーナーにうつっていた。
タレントの人たちは、自分の意見をコンパクトにまとめるのが上手い。わたしは今のテーマで1分半は話してしまう。考える時間込みだと3分はかかる。
タレントの人たちは、本当に自分の意見をはなしているのかな?正解のあるクイズでない限り、自分の意見を短く単純な言葉で述べることはとても難しいと思った。
そして、そういう仕事は向いていないと思った。

済生会病院のドトールにて
病院の下のカフェスペースが昔から大好きだった。
小さい頃から、かかりつけの病院は築地の聖路加病院で、おばあちゃんが骨折した時の入院先も聖路加だったから、学校が終わって、そのままお見舞いに行ったり、とにかく良く通ってた。
聖路加は神聖な雰囲気で、病院の重苦しい雰囲気とは違う、教会みたいな緊張感と清潔感に溢れてた。
いつも背筋が伸びる気持ちで、不謹慎だけどワクワクする気持ちだったのは、下のカフェスペースのおかげかもしれない。
聖路加のわたしがよく使う入り口(こんなこと言われても誰もわからないけど)とは反対側にスタバがある。
そこのスタバがすごく好きで、病院がない日も行きたくなるくらい好きだった。
テイクアウトの概念しかないスタバだから、病院内のカフェスペース(フリースペース)や病室であまいあまいドリンクを楽しめる。
元気になったバアバに抹茶フラペチーノを買って行って、半分こして飲んでた思い出がある。
わたしは今日、水曜日の11時に、いろいろあって会社の近くの済生会病院の一階のドトールにいて、めちゃくちゃ居心地がいいことに気づいている。
くつろがなければならないとか、何かをしなければならないとか、すべての「しなければならない」から解放された気分になって、本当にくつろいでる。
音楽も聞かずに、ぼーっと隣の会話を聞いて、アイスコーヒーの結露で出来た水たまりも無視して、BRUTUSを読んでいる。
周りの人は、時間の流れにゆっくり身を任せて生きている感じがする。
今おやすみタイムで、休憩してる人が来てる。
休憩したいけど何かしたい人は街中のカフェに行くけど、病院のカフェは選ばないから。
お家に帰って家族とご飯を食べたり、AITで友達と喋ったり、週末に彼氏とたくさん遊んだり、仕事終わりに友達と飲んだり、家族とショッピングしたり、そんな幸せ時間が大好きなのに、仕事という悪魔によって侵害されたくない!
というより、わたしの場合は、仕事という悪魔に幸せな生活を侵害されないように、自分のスペースとペース保つことが大事なんだと気づいた。
いま病院のカフェスペースで、仕事も放棄してぼーっとしている。
受験期に1限をサボって、日比谷から神保町まで歩いて、遅延証を出したときみたいに!コロナ禍に家族とドライブして清澄白河の人々を眺めて、美味しいラテを買って帰る時みたいに!
これこそモラトリアム。
わたしの中でモラトリアムは、
「生活とは切り離されている、よくわからないこと・時間・自分それが許される。無用の用。」
この先の人生も、モラトリアムを面白がれる人でありたい。
モラトリアムを楽しみつづけることこそ、わたしの目標のひとつだったことに気づいた。
病院のカフェは、人生のモラトリアムを許してくれる。

いまのわたし
いまのわたし
“平日午後1時のわたし”
わたしは日向ぼっこをしている
今日は生理初日でお腹が痛いから、甘いものを飲もう!と、かれこれ3時間日向ぼっこをしている。
うちは角部屋で、南から北まで全方位に窓があるので、時間に合わせて日の当たる場所へ移動する。まるで北極星を目指す冒険家のように!
(※あくまで家の中を平面移動しているため、時間以外なにも進行していない)
“平日午後2時のわたし”
わたしは洗面台でメイクをしている
重い腰を上げて、メイクを始めた。
いつもとは違う場所にハイライトを入れて、気分も上がっている。
洋服もいつもとはテイストを変えてみた、久々に数珠みたいなネックレスをつけた!
“平日午後2時30分のわたし”
わたしはスタバでテイクアウト待ちをしている
給料日だったので貯金をしに駅へ向かった。
ちょうど西日が綺麗に刺して、小さい頃から変わらない、だいすきなまちの大好きな季節を感じながら、てくてく歩く。
何か甘いものを飲みたかったので、ジンジャーブレッドラテを買って、番号が呼ばれるのを待っている。
“平日午後3時のわたし”
わたしは気づいている
わたしは、どこにいくときでも必ずきちんと身だしなみを整える。
お父さんとお母さんも、いつどこに行く時でも必ずおしゃれにしてる。たとえ家の下のコンビニでも。
だらしがないと、自分や周りの気持ちまで自然と下がっていくから、身だしなみを整えているんだと思う。
自分のいいところは、”きちんとしてること”だと気づく。(自画自賛)
“平日午後3時5分のわたし”
わたしはふと気づいている
平日午後に仕事もせず、生理現象を理由に日向ぼっこをし、立ち上がったかと思えばメイクやら衣装合わせを行い、やっと家を出たかと思えば貯金してスタバをテイクアウトして即帰宅し、自分のいいところは”きちんとしているところ”と気づきメモに書き出している。
…
身だしなみを整えただけで、きちんとしている人の定義とほぼ真逆の生活をしているのに…自分はとことんプー太郎であるということに気づく。
…
だけど、暇な時間はゆっくりして何か考えてもいいし、何も考えなくてもいいんだよ。
自分で自分のいいところに気づくなんて、すばらしいよ。それが間違ってても自分を労われているなんて、素晴らしいプー太郎だよ!とすぐに、本気で思い返した。
…
自分のいいところは”のんきで幸せ思考なところ”だと気づく。

終わりに
プー太郎というのは、世の中の生み出した悪のように捉えられがちですが、そんなことはありません。
他人との関係性の中で、本当の自分を見つけようとすることを諦めない、純粋な心を持った人間だと思います。
これからも、プー太郎をどうぞよろしくお願いします。
