東京で一人暮らしを始めて1年半。僕はチャリを買った。なんちゃってシティボーイに擬態するにはちょうどいいチャリを、僕はとても気に入っている。
そんなチャリ暮らしの、とあるデートの日。我が家からチャリで10分少々のところにある、彼女のお家に向かった。ふだんは駐輪場にチャリを置いてから、彼女のお家の前まで迎えに行くのだけれど、その日は早めにお家を出たらしい彼女が、駐輪場の入り口の近くにいた。僕は彼女がそこにいることに気づかず、今日こそは遅刻するまいと少し急ぎめにペダルを踏み込んだ。馴れ馴れしい管理人のおじさんに捕まらないよう、死角を縫ってチャリを停めた。
駐輪場から出たところで、彼女と目が合った。なにやらニタニタしながら近づいてきた。そして、開口一番、こう言い放った。
「ずっと見てた。なんか、生きてんなーって思った(笑)」
生きてんなーって思ったらしい。生きてんなー。馴染みのない日本語の響きだった。反芻した。その後の会話も、その日のデート内容も、よく覚えていない。生きてんなー。ただその言葉だけが、僕の脳みそに錨を下ろして、漂い続けていた。
何がそう思わせたのだろう。とても気になった。とりあえず、ほかのサンプルがなければ考えようがないと思って、”生きてんなー” を探しに街に出た。あくまで僕的視点ではあるけれど、いくつか見つかった。
スーパーで、お会計の行列に並んでいるとき。
ファストフード店で、セルフオーダーのパネルを操作しているとき。
駅の改札を通ってから、早歩きと走りを切り替えながら、閉まりそうなドアに向かっているとき。
コンビニやオフィスの電子レンジ前で、お弁当が温まるのを待っているとき。
少し背伸びして入ったお洋服屋さんで、服のタグをひっくり返して値段をチラ見するとき。
こなれたビストロのカウンター席で、注文のタイミングを伺っているとき。
こうやって羅列してみたら、なんとなく ”生きてんなー” の輪郭が見えてきた気がする。要は、生活感と呼ばれそうな何かが滲み出ているということなのか。いわゆる蛙化にも関連しそうだ。必死感なのか。でも、それはちょっと違う気がするし、そう結論づけたくない。野生的とまではいかないけれど、生きるための、暮らすためのささやかな行為が、 ”生きてんなー” を引き起こしているのだと思う。
何かと「AIに聞いてみたら?」と言われるこのご時世なので、個人的にチャッピーより信頼しているClaudeに聞いてみた。こう返ってきた。
「演じていない人間を、こっそり見てしまった感覚。見られていると知らないから、素のまま動いている。その瞬間に、生き物としてのリアリティが滲み出る。」
言っていることはほとんど同じだ。でも、Claudeが出してくれた “演じていない人間” という言葉は、言い得て妙だなと思った。
僕らはいつも何かを演じている。というより、演じることを強いられているのかもしれない。とても窮屈に聞こえるけれど、そうでなければ社会は成り立たないし、何かを演じることで守られることもある。だからこそ、演技では覆えない塗り残しのところが見えたとき、そこに ”生きてんなー” を感じるのかもしれない。
再び街に出てみた。みんな ”生きてんなー” をしていた。そんなシーンをつなぎ合わせて、白文字手書き風タイトルを添えれば、いわゆるエモ系の映画が生まれるのだろう。そんなことを思いついてしまった瞬間、 ”生きてんなー” をやや冷笑的に探していた自分をひどく恥じ、一生懸命にチャリを漕ぐのでした。
