どこからがグロい?
最近某友人と話していた時に、ニキビを潰す動画がグロいかグロくないかの話をした。彼曰く、皮膚を体外と見ていたらグロくない、体内と見たらグロいとのこと。話の発端となった送られてきたリールでは、胃のなかに食べ物のキャラクターがいて、健康について語るというよくあるAI動画。まあグロいと言えばグロいが、キャッチー。確かにそんな動画を見たくないが、グロいから見たくないというより、そのつまらない内容を最後まで見るのが苦痛で見たくないとったところが私の感想だろうか。
私はそこまで胃のなかのキャラクターをグロいとは感じなかった。そしてその理論で言えば耳垢掃除は突っ込んだら脳につながっている感じがグロくないか?という話をした。結局オチがどんなだったかは覚えていないが、どうでも良いことである。
「生理的に」って何?
人々は生理的に無理ってよく言うけど、どこで形作られるのだろうか。私は流されていないトイレが生理的に無理だ。人によってはただ流せばいいじゃんという人もいると思う。ここでコンサル系の友人たちは、要因としては環境要因と生まれつき要因の二択で考えるのが自然であると言うのではないだろうか、脳内の某TTさんがそう私に呟いてくる。
たとえば、夏にお父さんがパンツ一丁でアイスキャンデーを食べるのが当たり前の家庭では、家でほぼ裸で過ごすことが当たり前だと感じるだろう。私の父がそうである。私は決してお風呂上がりにパンツ一丁でアイスキャンデーを食べるような真似絶対に実家ではしない。対して、パジャマでリビングに降りてこない、唯一パジャマでリビングにいるのはお風呂上がりのみ、というようなうちの母みたいな人もいる。そんなも元で育った私は、実家では部屋着という概念がなく、東京の家でほぼ裸族として過ごしている。
環境がどうであれ裸を許す人と許さない人がいる中育った私は、裸を許すし許さない側になっている。これは生まれつきの特性なのか?育った環境のせいなのか?
ニキビを潰すことをグロいと思うか思わないか、環境で慣れたものなのか、生まれつきの特性なのか?
自他境界が曖昧になりがちな今日この頃だから
自分が常識としているものが、本当に常識なのかはわからない。アインシュタインが常識というものは18歳までに培った偏見であると言っていたとTwitterで見たことがある。
このくらい普通でしょっていうところが、耳の垢掃除くらいのことだったら、グロいと思う人もいるし、気持ちいいと思う人もいる。夏は裸で過ごしてもいいし、パジャマで一日過ごしてお風呂上がりは裸で過ごしても良いという人もいる。私の友人は深夜の2時に家族で夕飯を食べると言っていた、そういう家庭もある。そんな色々な人の偏見という名の常識を忘れずに過ごしたいと思う今日この頃だ。
例えば双子の赤ちゃんがいたとして、片方は2秒間、窓の外の赤い車が目に入った。片方は目に入らなかった。それだけでも環境の違い記憶の違いが刻まれ、常識というものや感覚センスというものが異なって育つと思う。
こうやって言葉で整理することは簡単だけれど、友達や恋人、家族と話すときはお互いの常識をぶつけ合い、感情をぶつけ合い、意味のない喧嘩をしてしまうことがたくさんある。感情というものは理論で簡単に片付けられるものではないし、ぶつけること許し合うことを重ねることで、お互いの歴史が鍾乳洞のように形作られるものだと感じる。
ただ、お互いがその壁を削り、武器を投げ合うようなコミュニケーションは取りたくない。ここからここまでが私たちのスペース、ここからは私のスペース、そこからはあなたのスペースだとうまく境界線を作ることができるようになるのは、いつになることやら。
